2016/08/16

5月の仕事が終わってから一挙に気を抜いてしまったようで、油断していた。何となく普通じゃないなと思っていたら右上肢にも麻痺が出てきた。手の甲も少し感覚が鈍い。動作に難はないが、なんとなく皮膚感覚が鈍い。おそらく、長い間痛めたまま放置していた頚椎の異常から来る麻痺なのだと思う。神経内科に行くこと。毎日のメンテナンスを欠かさないこと。ストレッチをしながら、背骨に息を通すように色々なポーズを試した後、少し首の調子が良くなった。お灸も再開する。部屋にパソコンとiphoneを持ち込まないこと。朝早く起きること。

数日前から家で怪談を披露しているせいだろうか。米朝が、怪談話はしくじりが増える、と言っていた。忘れ物が増えたり、物をなくしたり、ボーッとすることが多くなる。体の麻痺もそのせいかもしれない。

中野の八幡神社に盆踊りを見に行った時、踊る人も、踊らない人も居て、子供達は各々走り回り、大人も普段の役職や肩書きを解かれて、浴衣を着ている人、普段着の人、分け隔てなく何物も排除されることのない祝祭の空間を心地よく感じていた。屋台では、子供達が祭りの日でなければ食べさせてもらえないような、串に刺さった食べ物や、色のついた食べ物が売っていて、おそらくその日は夜遅くまで起きていていいことになっているはずで、僕らもコンビニで買えば200円の缶ビールに500円出しても、まあいいか、なんて財布の紐だけではない、もっと芯から緩んでいる。盆に踊る踊りだから、盆踊りは死者の踊りとも言える。死者に扮する、死者と踊る。踊りの輪に、自らの体に死者を招き入れる。生者が賑やかす盆踊り大会にも、死は関係している。境界や制約の緩んだところに、外部から何物かが入ってくる余地が生まれる。死が、生きる人間にとっての他者ならば、他者の存在を想定していなくても、他者が入ってこられる余地が生まれると同時に、他者が存在し始めるという考え方もできる。何物も排除されない空間に招き入れられるのは生者だけではない、生者にとっての他者=死者も招き入れられるとするならば、おそらく、すべての祝祭は何らかの形で死に関係している。

怪談話をしていると、しくじりが増える、隙が生まれる、というのも、怪談話が死に関係しているからかもしれない。