2017/11/06

池袋で“発酵”について話すことになった。
http://tokyo-festival.jp/news/1279/
玄米のとぎ汁から育てた乳酸菌でヨーグルトをつくって公演で配ったことがある。米と麹でどぶろくをつくったことがある。他にdracom筒井氏が育てた30年ものの種菌を交配させたヨーグルトを継ぎ足し作ってほぼ毎日食べ続けている。引っ越した家の三軒隣には創業300年のもやし屋があり、その向かいに豆屋があり、少し歩けば桶屋がある。後学のために味噌を仕込むことにした。桶屋に注文したオーダーメイドの味噌樽が三週間で手元に届くと、スケジュール帳に大豆を浸水する日とその次の日は豆を茹で麹と塩を加えて樽詰めする日を記入して、予定のない日に二日がかりで味噌を仕込んだら台所のすみに放ってあとは来年か再来年か、三年後に開けるのを待っている。ついでに少し足を伸ばして無・減農薬の米を取り扱っている米屋で米ぬかをもらってぬか床を仕込んだ。ぬかに塩、唐辛子、煮干の出汁、ゆずの皮を加えて毎日かき混ぜて数日すると、ぬかのこうばしい匂いに少しずつ酸っぱみが加わり、捨て漬けの野菜を入れて二、三日であっという間にシンナーに似た刺激臭に変化したので慌てて野菜を取り出し、塩とぬかを足すと匂いが落ち着いた。その後きゅうり、大根、人参など試しに漬けてみたものの味は本漬けに遠く及ばず、ぬか床は再び刺激臭を放ち始めてしまうのだが、これは腐敗しているわけではなく乳酸菌の過剰発酵らしい、おそらく。しばらくの間は野菜を取り出して毎日かき混ぜてぬか床が落ち着くのを待っているのだが、こちらは仕事で海外に来ているので見守るしかない。家人が手間をかけている。振付を踊ったことのある人なら誰しも、与えられた身振り手振りが体になじんでカウントが呼吸や間に変わる局面に立ち会ったことがあるだろう。自分の体に型を引き寄せ乗り越えはみ出す踊りがあれば、型に向かって自分の体が歩み寄る踊りや舞もある。いずれにせよ振付を舞い踊るプロセスでは振付も体もお互いに引きあい歩み寄り支え合っている。振付に合わせて体を動かし始めたときには、カウントやポーズのなどのきっかけが手掛かりになる。時間を経るにしたがってきっかけときっかけの間に少しずつ意識が行きわたるようになってきた頃に、きっかけの積分であることをやめた身振り手振りは変質し始める。踊り続けた体が踊るのは経過した時間ではなく“旬”でなくてはならない。老いの踊りは先延ばしされた“旬”を発見することにある。樽の中の大豆と塩と麹は一年経たずに味噌になるが、三年経つとよりうまみがでるらしい。京都ではイヴォンヌレイナー「トリオA」上演と映像プログラムに大変刺激を受けた。デュッセルドルフで去年の韓国に続いてまたもや土方巽の仕事に関わっている。ポストモダンダンスも舞踏も、パフォーミングアーツの革命的なムーブメントは、その後マンネリを経て技術と形式を洗練させジャンル化(=モダンダンス化)した。帰国したらまずぬか床をかき混ぜて、池袋ではイケてる人たちとの対話に刺激されて新しいことを思いつきたい。

2016/08/16

5月の仕事が終わってから一挙に気を抜いてしまったようで、油断していた。何となく普通じゃないなと思っていたら右上肢にも麻痺が出てきた。手の甲も少し感覚が鈍い。動作に難はないが、なんとなく皮膚感覚が鈍い。おそらく、長い間痛めたまま放置していた頚椎の異常から来る麻痺なのだと思う。神経内科に行くこと。毎日のメンテナンスを欠かさないこと。ストレッチをしながら、背骨に息を通すように色々なポーズを試した後、少し首の調子が良くなった。お灸も再開する。部屋にパソコンとiphoneを持ち込まないこと。朝早く起きること。

数日前から家で怪談を披露しているせいだろうか。米朝が、怪談話はしくじりが増える、と言っていた。忘れ物が増えたり、物をなくしたり、ボーッとすることが多くなる。体の麻痺もそのせいかもしれない。

中野の八幡神社に盆踊りを見に行った時、踊る人も、踊らない人も居て、子供達は各々走り回り、大人も普段の役職や肩書きを解かれて、浴衣を着ている人、普段着の人、分け隔てなく何物も排除されることのない祝祭の空間を心地よく感じていた。屋台では、子供達が祭りの日でなければ食べさせてもらえないような、串に刺さった食べ物や、色のついた食べ物が売っていて、おそらくその日は夜遅くまで起きていていいことになっているはずで、僕らもコンビニで買えば200円の缶ビールに500円出しても、まあいいか、なんて財布の紐だけではない、もっと芯から緩んでいる。盆に踊る踊りだから、盆踊りは死者の踊りとも言える。死者に扮する、死者と踊る。踊りの輪に、自らの体に死者を招き入れる。生者が賑やかす盆踊り大会にも、死は関係している。境界や制約の緩んだところに、外部から何物かが入ってくる余地が生まれる。死が、生きる人間にとっての他者ならば、他者の存在を想定していなくても、他者が入ってこられる余地が生まれると同時に、他者が存在し始めるという考え方もできる。何物も排除されない空間に招き入れられるのは生者だけではない、生者にとっての他者=死者も招き入れられるとするならば、おそらく、すべての祝祭は何らかの形で死に関係している。

怪談話をしていると、しくじりが増える、隙が生まれる、というのも、怪談話が死に関係しているからかもしれない。

2016/08/12

ほとんど眠れず。ホテルに設置してあるサウナで汗を出したら大分調子が良い。京都駅で増田さんと待ち合わせて、バスで舞鶴へ向かう。公共交通機関の座席背もたれが首/頭部にしっくりきたことがないのだけれど、あれは、わざと納まりが悪くなるように設計されているとしか思えない。うつらうつらしている間に渋滞に巻き込まれ、二時間遅れて舞鶴に到着する。駅で砂連尾さんと待ち合わせて、タクシーでグレイス舞鶴へ。

 砂連尾さんのストレッチワークショップ、ダンスワークショップ。臨床哲学者の西川勝さんのレクチャーを挟んでたっぷり四時間。久しぶりに幾つか簡単なヨガのポーズに挑戦したが、全くうまくいかない。体そのものが障害物と化してしまう。普段のストレッチがいかに雑かを思い知らされる。もう少し普段の運動に順番、体系を導入しよう。少し締めたい気分。音の流れている場所を探す。スタジオをウロウロしながら、参加者それぞれが発見した音の流れている場所を辿っていく。参加者2人と入所者の岡田さんと、気持ちの悪い音(耳に聞こえる必要はない)を作り出す。合間合間に西川さんのレクチャーが挟まる。音、は耳で聞いているだけではない。耳、目、触感、想像。実際に体で感じていないにも関わらず、夢の中では感じることができる。擬音語。無音ではない静寂の擬音語、シーン。シーンという音を聞いているわけではない。岡田さんとのセッションにタイトルをつける。考える/思う、ではない感じたことを言葉にする。相手に伝える必要のない、自分自身にしっくりくる言葉。通貨としてやり取りできる言葉ではなく、“根のある言葉”。参加者それぞれにしつこく聞いていく、おそらく西川さんが答えを持っているわけではない。西川さんもよく分からない、だからこそ、そういう言葉に出会いたという欲求がしつこさの元になっているのだと思う。

夜は豊平さんの哲学カフェ。“死者”について。盆の話を聞いていて発見があった。パフォーマンスの恐れ、やったことは消えてなくならないという感覚。星の光が地球に届いた時点で、我々は過去の光を見ているのと同様に、過去は遠く離れた場所で現在として存在している。

 “人間は死なないんだよ、消えて行く奴はいるけれど” - 荒川修作

とすれば、人間はなくならない。ただただ遠く離れていく。身振りも声もなくならずに、遠く離れていく。

お好み焼き屋で飲食をしながら、施設長の淡路さん、西川さん、砂連尾さんからたくさんの話を聞く。今日来ていたTシャツはたまたま砂連尾さんと全く同じものだった。施設の空き部屋に泊めてもらう。

小学校の教育実習生、夏休みにしか会えない親戚のお姉さん、修学旅行に同伴した旅行代理店の社員。特別美人というわけではないのだけれど、子供の頃に体験した(かもしれない)ときめきをフラッシュバックさせる雰囲気の女性が一人いて、目を合わせられない。成熟から程遠いと感じる。

夜、流れ星を見る。

2016/08/10

昼バスで京都へ向かう。予約時点で全く考えが及ばなかったのだが、お盆だ。高速道路に入ってすぐに渋滞に巻き込まれる。帰りが思いやられる。乗車時間が10時間程度で済んだのはまだ序の口かもしれない。ホテルにチェックインする。浴場とサウナが設置されていることを理由に選んだホテルは7月にオープンしたばかりで、合宿所や特老施設を思い起こさせる食事内容と、内装の作りを面白く感じた。hyslomのアトリエが近くにあったはず。増田さんと京都駅で待ち合わせて、高槻へ向かう。ジャワ舞踊家の佐久間さんとその奥さん。砂連尾さんと。11月の障害者施設でのダンスワークに向けたアドバイスをもらう。佐久間さんの体の動きに吸い寄せられる。“例えばこう、手を合わせるでしょう”、こちらに向けた手のひらに思わずこちらも手のひらを重ねそうになる。重ねそうになる前に、重ねてなるものか、と抵抗していることに気がつく、そして重ねそうだったことに気がつく。ビールを二杯飲んで、トイレに向かう途中で右足裏に違和感。ホテルに帰って靴を脱いで素足を触ってみると、右足側面に痺れがある。ネットで検索すると、どうやら腓骨神経麻痺と呼ばれるものと同じ症状だ。昼バスの長時間乗車がこたえたのかもしれない。1年前からとれない股関節の痛みと共に、諦めてお付き合いしなければいけない類の違和感なのか。少し様子を見て病院に行こう。同居人が増えたような気分。

2016/08/07

数日前から会社を無断欠勤し、連絡不通になっている弟の様子を見るために、両親が秋田から上京してきた。勤務先の社員から電話で聞いたところによると、アパートまで行ってみるもドアに鍵がかかっており、電話をかけても部屋の中で呼び出し音が鳴っている気配もない。電気メーターも動いている様子はない。昨晩は最悪の事態を想定し、終電間際の電車でアパートまで様子を見に行った。鬱で引きこもっているようならば、あまり刺激するのはよくないだろうと、訪問したことも悟られないように、ドアの前で耳を澄ましてみるが物音一つない。電気メーターの動作を確認することはできなかったが、風呂場の換気扇が回っている音が聞こえるので、電気が止まっているわけではないようだった。郵便受けの新聞紙は、会社から田舎の両親に電話があった日の前日分から溜まっていた。夜眠れず。

朝、両親と駅で待ち合わせる。母親は駅近で待機。父親とアパートに向かい、スペアキーでドアを開けて中に入ると、弟はいた。

シャワーを浴びさせて、食事をしながら話を聞いていると、どうやら、寝坊してしまい、そのまま面倒臭くなってしまったとのことだった。SEの仕事は過酷だ。仕事はほとんど毎日、早朝から深夜まで。趣味の時間を作ることもできなければ、会社の同僚以外の人間と知り合う機会もない。人は孤独が続くと、人との関わりが面倒になる。関わりの中で生きているということが見えにくくなる。朝、目が覚めて時計を見ると出勤時間を過ぎている、電話の着信が数件、その時、詫びの電話を返す、急いで会社に向かう、ということができない。面倒臭いな。関係を修復するよりも、断ち切る方が楽だからだ。本人が断ち切ろうとしている関係の背後に、大勢の人間が動いているということを想像することができないのは、他者に接する機会を逸していることが原因になっているのではないか。しかしどうしたらいいのだろう。仕事以外の時間はないのだ。正直、馘になればいい、と思っていたが、10年も務めていると会社はなかなか辞めさせてくれない。明日から出勤するという。

今年は盆に帰省することはできなかったので、思いがけず東京で家族四人がそろった。今月の占いに、家族間でドラマチックな出来事が起こるかもしれない、と書いてあったのはこのことを指していたのかもしれない。まあ、生きていて良かった。なにしろこの暑さだ。部屋の中でビーフシチューになっていたらどうしよう、マスク三人分買っていこうかな、来週の関西視察は取り消しだな、喪服っていくらだ、過労死だったら会社を訴えよう、この体験が作品になるかな、とか、様々な想像が。平野勝之「監督失格」のワンシーンがフラッシュバックしていた。昨晩、その場面を思い出しながら、数日分の新聞束が挟まったドアの郵便受けから部屋の中の匂いを嗅いで、異臭の有無を確認していた。今日、まだ弟の生死の確認が取れる前、父親が玄関のドアを開けて、弟の名前を呼びながら廊下を進んだ先にある部屋の扉を開けた時に、ベッドの上に投げ出された手足が目に飛び込んできたあの光景は、しばらく忘れられそうにない。



2016/07/16

月末の企画に向けて準備。

“出会いの対象は、所与ではなく、所与がそれによって与えられる当のものである。”
「差異と反復」ジル・ドゥルーズ

“受動的総合の至福”から抜け出ること。人は考えるのではなく、考えさせられる。動くのではなく、動かされる。人間が意志を持って物事を遂行しているというフィクションから抜け出て、思考を強制する暴力-シーニュと出会う。考えさせられ、動かされる可能性が呼び込まれることを願って、近所の公園で開催されている盆踊りを見に行く。


池袋西口にゅー盆踊りmemo

・“踊り”を前提にしない 発生すると考える  なぜ“踊り”になるのか
・劇場の、見る踊り、発生源を考える
・同一の発生源から踊り以外の発生はありうるか

◯にゅー盆踊りの発生
あうるすぽっと(劇場)、コンドルズ(ダンスカンパニー)企画製作


’にゅ~盆踊り’は、圧倒的人気を博する男性だけのダンスカンパニー‘コンドルズ’主宰、
振付家・ダンサーの近藤良平さんが創作した‘にゅ~’なオリジナル盆踊り。
近藤良平さん・コンドルズならではのユニークな仕掛けも満載、今年で9年目を迎えます。

集い、踊ることは楽しい
だからその楽しさを使って池袋の街を盛りあげよう!
2008年夏、その想いを胸に、近藤さんとあうるすぽっとは‘にゅ~盆踊り’をスタートしました。
まずは劇場でワークショップと公演が一体となった企画を開催したのです。

「自分の住んでいる街を自慢したいよね~」
そう語ってくれた近藤さん、実は池袋に住んでいます。

このとしまを面白くしたい、
そして、みなさんと一緒にもっともっと街を元気にしたい。
そんな思いを込めて
2009年夏、劇場から池袋の街へと飛び出しました。

ユニークで活気あふれるこの盆踊りは毎年大盛況。
少しずつ街に浸透していきました。

~公式サイトより
ーーーーーーーーーー

新しい盆踊りではなく、盆踊り仕様の祭り
レジャー、非日常、ハレ(浴衣、屋台、etc)


来場者は踊ることよりも(踊りのある)場所に集うことが目的となっているよう
(見かけた知的障害らしき女性。音頭、お囃子に合わせることなく独自のリズム、足踏み、手振り。外見でリズムに合っていないからといってリズムを無視しているとは限らない。場所に集うことよりも一人で踊りに向き合うことが目的のように見えるが、お囃子や、音頭があるからこそこの場所を訪れたのかもしれないし、盆踊りの輪から離れているからといって一人で踊っているとも限らない。輪の外で踊っているとも限らない。)

西口公園、ホームレスのいる風景が違って見える
(飲酒、地べたに座ることの正当化)

個、階級の消失 
(ただし浴衣着衣によって可視化される階級)

にゅー盆踊りが一般(差異を抜き取られたイメージ)化した盆踊り仕様の祭りなら、劇場で見る舞踊は、一般化した演劇-劇場仕様の踊りと言える

にゅー盆踊りは、新しい盆踊りを創造するのではなく、盆踊りが開催されることによって人が集まる場を形成することを目的としているので、踊りが発生する根拠を問う必要がない

盆踊りとは、こういうもの、だから

※盆踊りの起源を調べること、ただし、現存する継続して開催されている盆踊りも、思いつき、見よう見まねを起源とするものがあるに違いないので、本質主義的にならないこと
舞台上で見られる踊り(踊りを見ること)も、参加型の踊り(踊りに参加すること)も特殊形態として語るべきで、本来あるべき姿として何物も想定しない


◯にゅー盆踊りの役割

盆踊りへの参加、コミュニティ形成、フェスティバル/トーキョーの宣伝、娯楽、募金活動(熊本、福島、文化(盆踊り、劇場、コンテンポラリーダンス、民謡、地域芸能)の普及

2016/07/12

あまりに面白くて続けて2度見てしまったフィンチャー「ドラゴンタトゥーの女」のリメイク元、スウェーデンで製作された「ミレニアム」3部作を見終えた。原作著者のスティーグラーセンが残した小説は第4部まで翻訳されているらしいので、続きは小説を読もうと思う。第4部は別の著者が執筆しているよう。日本語吹き替えに切り替えて、海外ドラマを見る気楽さで長尺のテレビドラマ版を見たが、いたるところに女性蔑視表現と、それに対する怒りが満載で、見ていてこちらも熱くなってくる。wikipediaによると、原作著者が15歳の時に女性が輪姦される現場に居合わせたが、何もせずに立ち去ってしまったことが、テーマの元になっていて、その被害者女性の名前が“リスベット”だったとか。フィンチャー版でルーニーマーラが演じていたリスベットを演じているのはリドリースコット「プロメテウス」の主演女優だった。明け方に見たのは「アタックザブロック」。貧困層が多く暮らすイギリスの団地に地球外生命体が襲来するという荒唐無稽な話だが、想像以上に面白かった。イギリスのEU離脱を導いた国民投票の背景も思い起こされた。おそらく、都市部で離脱に投票した国民の多くはこんな場所に住んでいる人たちなんじゃないだろうか。主演はスターウォーズ「フォースの覚醒」に出ていた人で、マリファナを買いにくる若者を演じていたのは、先日池袋シネリーブルで見たナショナルシアターライブ「夜中に犬に起こった奇妙な事件」で自閉症を好演していた役者だった。